“ボルバルブルー”を携えて(後編)

エターナル・リーグ中部エリア予選。
ろっぴーと蒼雷が激闘を繰り広げたあの日から少し、時は遡る。

2004年6月19日。
ワールドホビーフェア2004へと。
彼が《無双竜機ボルバルザーク》と出会った日へと。

 

 

 

彼は、当時としては平均的なDMプレイヤーだった。

ポケットモンスターカードゲームを通じてTCGを知り、友人に勧められて遊戯王OCGを買い、コロコロをきっかけにMtGをプレイし、デュエル・マスターズに辿り着いた。
 
 
 
そのころの彼にとってTCGはまだ数あるホビーの1つで、それだけに没頭していたわけではない。1999年に発売された「ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ」もまた、彼を熱中させたゲームの1つだ。
 
持ちキャラを青いカービィと決めていた彼が、” Kirby Blue “を名乗るようになるまで。
つまり” K.BLUE “を名乗るようになるまで、さほど時間はかからなかった。  
 
 
 
幕張メッセへ向かう道すがら、K.BLUEは新弾のカードに思いを馳せていた。
頭にあるのは殿堂構築のことではない。

初めての殿堂入りが発表され、殿堂レギュレーションが制定されたのは3ヶ月前、3月15日のこと。
第1回目の殿堂入りに選ばれたカードは5枚。

■《アストラル・リーフ》
■《エメラル》
■《サイバー・ブレイン》
■《ストリーミング・シェイパー》
■《ディープ・オペレーション》

見事なまでに青一色。初期のデュエル・マスターズでどんなゲームが展開されていたのか、だいたい想像がつくだろう。

しかし、現代の感覚からは信じられないかもしれないが、このリストが適用されていたのは公式大会の本戦だけだった。公式大会のサイドイベントから店舗の公認大会に至るまで、ほとんどの大会に殿堂レギュレーションは採用されていなかったのである。

だから、コロコロコミックの事前情報を見ていち早く《ボルバルザーク》に気づいていたK.BLUEが念頭に置いていたのは、それをいかにして《アストラル・リーフ》と組み合わせるかということだけだった。

このとき彼が会場で組み上げたのが、のちに「ボルバルリーフ」と呼ばれるアーキタイプである。
新カードのトレードに奔走し、サイドイベントに出場しなかったWHF当日こそ勝利は挙げられなかったものの、そのデッキは直後の公認大会で期待に違わぬ強さを見せた。

他のプレイヤーが影響を受けないはずもなく、「ボルバルリーフ」は関東圏で燎原の火のように広まった。公認大会に出れば、誰かが必ず「ボルバルリーフ」を使っていた。

 
 
 
だが、奇妙なことに。
「ボルバルリーフ」が広まったにも関わらず、プレイヤー達が《ボルバルザーク》を殿堂構築へ持ち込むことはなかった。

彼らにとって《ボルバルザーク》は弱いカードだったのである。いかに大会で勝利を重ねようと、その認識は変わらなかった。

原因は、DM-08で登場した《スケルトン・バイス》にある。

 
 
 
《スケルトン・バイス》は、手札を2枚破壊する4マナの呪文だ。同じ4マナで最大5枚の手札補充を可能とする《アクアン》には及ぶべくも無い。

だがそれはあくまで 《アクアン》に及ばないというだけのこと。強力なドローソースを持たない他のアーキタイプに対しては極めて強力なカードだった。
3月の殿堂発表により《サイバー・ブレイン》、そして《アストラル・リーフ》を失ったデッキ達に、《バイス》への対抗策はなかった。

だから《ボルバルザーク》を殿堂構築で使おうなんてことは、《リーフ》のない《ボルバルザーク》を使おうなんてことは、全くのところ夢物語だった。ろっぴーが持ち込んだ赤緑の《ボルバルザーク》が追従者を生まなかったのはつまり、そういうことだった。
プレイヤー達が信じていたのはドローソースであり、決してフィニッシャーではなかった。

デュエル・マスターズはリソースのゲームだと。
そういうことになっていたのだ。

 
 
 
 
2004年の夏。
WHFの後も、K.BLUEは毎週のように公認大会を巡っていた。2002年の発売と同時にデュエル・マスターズを始めた彼の行動範囲は、しばらくは実家のある練馬だけだった。しかしこの頃になると、池袋や西葛西まで足を延ばすようになっている。

きっかけはインターネットだった。チャットサイトや掲示板で知り合ったプレイヤーに誘われ、相手が通う店まで遊びに行く。そんなことを繰り返しているうちに友人の数は増え、行動範囲も広がった。

当時は日本でブログサービスが普及し始めた時期でもあり、少しずつネットにデッキリストが上がるようになっていた。掲示板でのデッキ診断もこの頃からの文化で、プレイヤーの構築力を鍛える一助となっていた。

だが所詮、ネットにあるのは構築の話。プレイングまでは分からない。だから会って対戦し、技術を磨き合う。 
それが当たり前の時代だった。プレイの指針をはっきりと説明してくれる人間はまずいない。誰も彼もが暗闇の中で試行錯誤していた。

必然、プレイの上達が遅い人間というのは出る。K.BLUEはどちらかと言えば遅い方だ。
しかし、当時の彼は勝利に拘りすぎないプレイヤーだった。手当たり次第にデッキを組んでは公認大会へ出場し、遊ぶ。
頻繁に「ボルバルリーフ」によって粉砕されていたが、気にする素振りも見せなかった。

そんなK.BLUEが、あのデッキに到達したのは必然だったのかもしれない。

 
 
 
 
当時、エリア予選へ出場するためには抽選を乗り越える必要があった。ハガキを送り、当選の連絡を待つシステムだったからだ。
倍率は高く、K.BLUEが当選したのは関東エリアだけだった。友人達の遠征に付き合った時は会場でサイドイベントに興じ、「ボルバルリーフ」を使った。最初のエリア予選である北信越ではまだそのデッキは広まっておらず、彼は1日で80勝以上を挙げている。

だが、遠征中のK.BLUEは悩んでいた。
殿堂レギュレーションに、エリア予選に持ち込むためのデッキが思いつかなかったのだ。サイドイベントだけで勝っていても仕方がない。

思考の末、彼は当時としてはやや奇抜なアイデアに辿り着く。

” 「ボルバルリーフ」を、殿堂構築に対応させれば良いんじゃないのか? “

《アクアン》のないデッキで《バイス》が飛び交う環境を戦い抜こう、という発想である。当時の競技プレイヤーのほとんどは、思いついても即座に否定するだろう。

だが勝利に拘りすぎないこの男は、そうした制約と無縁だった。直ちにデッキを組み替え、調整を重ねる。
《ラブ・エルフィン》と《転生プログラム》を組み合わせたりといった試行錯誤を繰り返した後、ついに彼はあのデッキを手に入れた。

青と緑に、《ボルバルザーク》の赤を加えた3色のデッキ。

WHFで彼が見つけた「ボルバルリーフ」に良く似ているが、決して「ボルバルリーフ」ではないデッキ。

彼が手に入れたのは、まさしく「ボルバルブルー」だった。

 

 

そうして、物語は再び幕張メッセに立ち戻る。

エターナル・リーグ最後の予選、関東エリアは幕張メッセ。 
時代の始まりと同じ場所で、K.BLUEはAブロック予選を戦っていた。

彼は順調に勝ち進んだ。恐れていた《バイス》は第1回戦で「化身コントロール」に撃たれたものの、トリガーを踏まなければ勝ちという状況まで粘り、《ボルバルザーク》で勝利を挙げている。

DM-10で多色カードが登場して以来、殿堂構築の環境はブラック、ホワイト、グレーの「アクアン」一辺倒だった。その間隙を縫って「化身コントロール」などが生き残っていたものの、少数派である。

この時、《バイス》を採用していたのは「アクアンブラック」、そして「化身コントロール」ぐらいのもの。他のローグデッキなども分布していたことを考えれば、《バイス》が圧倒的多数を占めていたというわけではなかったと推察される。
多くのプレイヤーが感じていた” 《ボルバルザーク》は《バイス》に弱い “という見立てそのものは誤りではなかったが、” だからTier1ではない “と断じていたのはやや早計だったのではないだろうか。

そうした状況だったにも関わらず” 《バイス》が怖い “という幻想が壊れなかったのは、大会の少なさゆえ、情報の少なさゆえだろう。
あるいは” 《アクアン》で勝てているのだからそれで良い “という慢心ゆえであったのかもしれない。

ともかく、リソースを取り合うコントロールゲームから脱却出来た人間はごく僅かだった。スピードという概念は《機神装甲ヴァルボーグ》が活躍した2003年を境に失われたように見えた。
だがろっぴーとK.BLUEはその概念を再び発掘し、殿堂構築へと持ち込んだのだ。

そのろっぴーは、優勝という戦績を勝ち取っている。
K.BLUEもまた、あと少しで同じものを手に入れようとしていた。

あと、ほんの少しで。

 

 

関東エリア予選は、決勝戦を残すのみとなっていた。対戦卓の片側にはK.BLUEが座る。興奮とも緊張ともつかぬ感情が彼の心を支配していた。

公式大会での入賞とは無縁だった。店舗大会での優勝も多くはない。その自分が、決勝を迎えようとしている。

夢か現か。そう考えるK.BLUEの目が対戦相手を捉えた。
途端に、夢だと思い込みたくなった。

 

 

反対側の席に座ったのは大日向。
2003年に行われた、史上初めての日本一決定戦で優勝した選手。

この関東エリア予選の時点で、間違いなく日本最強の男である。

 

 

黒服のジャッジがゲームの開始を告げた。K.BLUEは相手のデッキを測りかねていた。
《アクアン》だろうか?それとも、《ボルバルザーク》に気づいているのだろうか?

日本一の選択は、そのどちらでもなかった。K.BLUEは、マナゾーンに置かれたカードを見てたちどころに状況を理解した。
目の前の男が使っているのは「白赤速攻」だ。

 

 

速攻というアーキタイプの成立は《解体屋ピーカプ》や《襲撃者エグゼドライブ》が登場した2003年に遡る。現代のプレイヤーでも、アーキタイプの存在は知っているだろう。

しかし、この種のデッキが2004年時点で活躍していたとは言い難い。殿堂発表前は《エメラル》や《アングラー・クラスター》を搭載した「青単」がいたし、殿堂発表後はブロッカーを並べる「アクアンホワイト」が環境の一角を占めていたからだ。

おまけに「白赤速攻」がDM-10で得たものと言えば、《予言者クルト》だけ。待望の1コストクリーチャーと言えど、カードが1種類増えた程度で動きが変わるアーキタイプではない。
何故、大日向はこのデッキを選んだのか。K.BLUEには分からなかった。

 

 

ゲームは6ターン目を迎えていた。序盤の《シビレアシダケ》で既に7マナに達しているK.BLUEだったが、顔に安堵の色はない。
引かないのだ。《ボルバルザーク》を。

相手の場には《ブレイズ・クロー》が2体に《時空の守護者ジル・ワーカ》が1体。そして手札には《エグゼドライブ》を抱えていると、K.BLUEは知っている。
そのK.BLUEの場には、アタックできるクリーチャーが3体。

シールドは互いに2枚。

 

手札の《大地》で《ジル・ワーカ》を除去すれば勝てるかもしれないが。
相手のシールドから《ホーリー・スパーク》が出てこないとも限らない。

負けられない状況を経験するのは初めてだった。公認大会とは異質なエリア予選の空気を、彼はようやく実感した。
既に日本一を経験した大日向。そうでないK.BLUE。2人の間には、目に見えぬ差があった。

時として、そうした差はデッキの相性を凌駕する。

 
 
 
 
結局、K.BLUEがプレイしたのは《アクア・ハルカス》だった。手札には状況を打開するのに十分な除去カードがあったにも関わらず、 《ボルバルザーク》を手に入れようとドローカードに手を伸ばしてしまった。 
《ボルバルザーク》は引けたものの、その瞬間にミスに気づく。仕方なく《大地》で自分の《ハルカス》をマナの《アクア・サーファー》と入れ替え、相手の《ブレイズ・クロー》を手札に戻して望みを繋いだ。
 
 
だがターンを得た大日向は即座に《エグゼドライブ》を召喚し、残る3マナで《マグマ・ゲイザー》をプレイ。W・ブレイカーを得た《エグゼドライブ》がシールドを割り切り、勝負を決めた。

K.BLUEとてこの単純な詰みに気づかなかったわけではない。負けたくないという思いが判断を誤らせたのだ。ここに来て、勝ちに拘りすぎてしまった。
頓死と言って良い。

そうして関東エリア予選は終わったのだが。
決勝を終えたK.BLUEの顔は、意外にもさほど暗くなかった。

まだ、チャンスが残されていたのである。

 

 

 

2004年にだけ行われた大会があった。” シャイニング・シックス・バトル “という。

全国大会の日、11月21日の午前中に、各エリア予選の準優勝者9名を集めて行われた大会だ。上位6名は午後からの全国大会へ出場することができた。

同じタイミングで行われた” エターナル・リーグ最終予選 “とは雲泥の待遇だ。シャイニング・シックス・バトルの横で同時進行となった最終予選を抜けられるのはたったの1名。対するこちらは9人中の6名である。落ちるほうが難しい。

関東エリア予選からおよそ3ヶ月。
「ボルバルブルー」の衝撃は全国を駆け巡り、メタゲームに少なからぬ影響を与えていた。その意義を理解し使うものもいれば、《ボルバルザーク》に強烈なメタを貼って優位に立とうとする者もいた。

この日、レギュラークラスの最終予選へ出場したライカルは《ボルバルザーク》を使わない側の選手だった。中学生だった彼は赤抜きの「4Cイニシエート」を使い、同じ神奈川に住む盟友・iwataと決勝で激突。辛くも勝利し、自身初となる全国大会への出場を果たしている。
またオープンクラスの最終予選へは、K.BLUEの友人である月心が出場していた。関東エリア予選後に発売されたDM-11から《聖皇エール・ソニアス》を採用した「アクアンホワイト」で、3位に食い込んでいる。

そうした事実をK.BLUEが知ったのは後からだった。シャイニング・シックス・バトルへ全身全霊を傾けていた彼に、会場の様子を確認する余裕はない。
エリア予選と変わらずボルバルブルーを使い、無事通過。残すは16人で戦う全国大会の4ラウンドのみ。

第1ラウンドの相手は、あの” 日本最強 “だった。
雪辱を晴らす、これ以上ない好機のはずだった。

だが、そうはならなかった。

 

 

因縁の男と3ヶ月ぶりに対面したK.BLUEだったが、勝敗は3ヶ月前と変わらなかった。
大日向は相変わらず「白赤速攻」を使っていたし、そのデッキはDM-11で強化されてもいないはずだったのに、結果は同じだった。

大日向は、当然のように勝ち進んだ。
直後の2回戦で、アクアングレーに勝利。続く3回戦ではアクアンホワイトを撃破している。
ヤマを張り、1点賭けしてきたわけではない。この環境で戦えるデッキと判断した上で「白赤速攻」を持ち込んでいるのは明らかだった。

K.BLUEは分からなかった。3ヶ月前からずっと、日本一の男が何を考えているのか検討もつかなかった。

あのエリア予選の後、彼は大日向のリストを何度も眺めた。
《双光の使徒カリュート》が3枚しか入っていないのはまだ良いとしよう。しかし《凶戦士ブレイズ・クロー》も3枚しか入っていないのはどういう訳なんだ?
1コストのクリーチャーによる速攻こそがあのデッキの強みじゃないのか?どうして「白赤速攻」を選んだんだ?

大日向の背中が、遠く見えた。

 

 

デュエル・マスターズとて、勝負事の1つには違いない。自らの才を信じる者たちが集う場での負けは、少なからぬ苦痛を伴う。
大きな敗北の後に競技プレイヤーが感じる胸の痛みを、この時のK.BLUEも感じていた。

今日の自分は、ここで終わりなのだ。

文章にしてみればたった十数文字に過ぎぬ事実が、彼の心を責め苛む。

デッキには本当に自信があったのに。
そう思う彼の目に、決勝卓が映った。

瞬間。
まだ「ボルバルブルー」が終わっていないことを、K.BLUEは理解した。

 

決勝戦へと進んだ大日向。反対側の席にいるのは、中部エリア代表のろっぴーだった。

初めて《ボルバルザーク》を持ち込んだ彼が、日本最強の男を待っていた。

” ボルバルブルー “を携えて。

 

 

 

速攻であるにも関わらず、大日向が初めてカードをプレイしたのは先攻2ターン目だった。
続く3ターン目にも2体のクリーチャーを追加し、先ほど出した《予言者ウィン》でシールドへアタック。
4ターン目には《時空の守護者ジル・ワーカ》が現れ、《ボルバルザーク》に睨みを聞かせつつ3体のクリーチャーがシールドをブレイクする。

後攻4ターン目。ろっぴーのターン。彼の残り1枚となったシールド。
決着は近い。

2ターン目に《シビレアシダケ》で《ボルバルザーク》をマナに置いた。3ターン目には《ラブ・エルフィン》、《エナジー・ライト》で手札を整えた。
そしてこの4ターン目。《アシダケ》を召喚して《大地》で《ボルバルザーク》に変え、《ハルカス》で1枚ドロー。

マナを使い切ったろっぴーは、《アシダケ》でアタックを宣言する。

 

大日向の側から見たとき、《アシダケ》のアタックは止められない。ブロックしたところで《ジル・ワーカ》の破壊に至らないからだ。必然的にシールドはブレイクされることになる。

だがそこから《ホーリー・スパーク》が現れ、ろっぴーの貴重なターンを失わせた。

 

 

奇妙なゲームだった。先攻は4ターンしか経過していないにも関わらず、後攻は5ターン目へ突入している。
《ボルバルザーク》が与えた、正真正銘最後のターンが始まった。

ろっぴーは《サーファー》を召喚し、《ジル・ワーカ》を手札へ戻す。
本当は《呪紋の化身》を場に送り込み、安全に勝つ予定だった。だが《スパーク》で計算が狂い、除去にマナを使うよう強いられている。

もうろっぴーに出来るのはアタックすることだけだし、大日向に出来るのはシールドに《スパーク》があるよう祈ることだけだ。

あるか、ないか。
デュエル・マスターズの要素の1つを突き詰めたような、そんな光景が2人の前に広がっている。

ろっぴーは、《ボルバルザーク》を横に傾けた。

 

 

《ボルバルザーク》がブレイクしたシールドに、《スパーク》はなかった。
《シビレアシダケ》がブレイクしたシールドに、《スパーク》はなかった。
《ラブ・エルフィン》がブレイクしたシールドに。

 

《スパーク》は、なかった。

 

 

そうして、ろっぴーと「ボルバルブルー」が日本一になった。

 

 

決勝戦が終わった後。
ついさっきまで日本一だった男にK.BLUEは駆け寄った。分からないままエターナル・リーグが終わるのは、耐えられなかった。
デッキリストを見せてもらい、関東エリア予選の時からずっと抱えていた疑問をぶつける。

「どうして《凶戦士ブレイズ・クロー》を3枚しか入れていないんですか?」

関東エリアの時も、この日のリストもそうだった。

大日向はあっさりと答える。

「持ってなかったから」

持ってなかったから?
K.BLUEは目の前の男の答えを理解出来なかった。” 持ってなかった “だって?コモンのカードだぞ。

「えっと…じゃあ…《双光の使徒カリュート》が3枚しか入ってなかったのも…」

「それも持ってなかったんだよねぇ」 

《カリュート》もコモンだ。

「…最後に、1つだけ。今日、《光器ユリアーナ》を1枚だけ採用していたのはどうしてですか?」

「面白いからかな。1枚しか持ってないし!」

その言葉を残して大日向は去った。後には、呆気に取られたK.BLUEだけが残された。エターナル・リーグは終わった。

 

 

後年、K.BLUEはデュエル・マスターズの開発に携わっている。その際、「カードゲーマー」誌上で連載を持つことになった。

彼が担当したコラムのタイトルは、” 最強のデッキはない! “。
「ボルバルブルー」を作った男らしからぬ命名と言える。少なくとも、あのデッキは日本一になったというのに。

プレイヤーとしての活動を終えるその瞬間まで、K.BLUEは分からないままだったのかもしれない。大日向という男のことが。

 

 

「ボルバルブルー」の優勝から約4ヶ月後、2005年3月15日。第2回の殿堂改訂が行われ、1枚のカードが新たに殿堂入りした。

■《アクアン》

一部で” ボルバルザークを禁止に! “という運動が始まっていたものの、《ボルバルザーク》は殿堂を免れた。確かにこの時点では” 「ボルバルブルー」は《バイス》で対策可能 “というのが定説ではあった。
だが、「アクアン」と「ボルバル」がTier1として共存していたゲームから、片方だけを取り除けばどうなるか。

 

《アクアン》が一線を退いた後、「ボルバルブルー」はミラーマッチへの対応に迫られた。そして当然のように《バイス》を取り入れ、「4Cボルバル」が誕生する。
さらに2005年3月26日、DM-13が発売。《炎槍と水剣の裁》が解き放たれ、環境は坂を転げ落ちるように悪化していく。

そんな状況が許されるはずもなく、2005年7月15日の第3回殿堂改訂で4枚のカードが殿堂入り。

■《スケルトン・バイス》
■《ヘル・スラッシュ》
■《ロスト・チャージャー》
■《無双竜機ボルバルザーク》

だが《ボルバルザーク》の勢いは衰えず、場所によっては” 公認大会参加者の7割以上が《ボルバルザーク》を使う “という事態へと発展。改善されぬまま、2005年の公式大会は続いていく。

” これはデュエル・マスターズじゃない “と。
” これはボルバルマスターズだ “と。

競技プレイヤーたちは、そう言っていた。

だが、それは決して諦めの言葉だったわけではない。選手たちは《ボルバルザーク》を手にジェネレート・リーグへ飛び込み、エリア予選を戦い抜き、そして日本一決定戦を迎える。

 

 

この時、エリア代表達の中に1人だけ異彩を放つ男がいた。
2003年から始まり、2005年で3度目となる全国大会。その全てに出場している男。

後に空前絶後の大記録を打ち立てるhiroが、そこにはいた。


カテゴリ:カバレージ