8年前…2008年度に行われた全国大会、ギャラクシーマスター。今回インタビューさせていただいたのは、そこでエリア代表、そしてGM期日本一タイトルを獲得しされたPULU(26歳)さんです。
かつて黒ランデスを駆ってタイトルを獲得し、今なお競技イベントの第一線で活躍する彼はどのような人物なのでしょうか?WINNERS CSの場をお借りしてインタビューさせていただきました。
■経歴
*運営歴*
おやつCS:フロアジャッジ
*入賞歴*
公式大会:GM期関西エリア代表決定戦 優勝、GM期日本一決定戦 優勝、EM期中部エリア代表決定戦 2位、PM期関西エリア代表決定戦 3位
CS:プレイヤー個人戦績(PULU)
■インタビュー
――本日はよろしくお願いいたします。まず、デュエルマスターズはいつごろからプレイされてるんですか?
「DM-3からです。周りの人たちと遊んでました。
初めて彼女が出来たときに少しデュエマから離れてましたけど、それ以外はほとんどそれなりにプレイしてましたね」
――競技イベントにはいつごろから参加されるように?
「パタ(WINNERSオーナー/認定ジャッジ)さんが2位になる前(※2007年以前)だったとは思います。
最初はショッピングモールのDRに出場するところから始まりました。何度か通っているうちにエスパーさんという方と仲良くなって、そのエスパーさんに”もっと強い人がいる所を紹介する”と連れて行ってもらった場所がおやつのじかんだったんです。確か高2の時だったと思います」
※【ショップオーナーインタビュー】パタさん(ショップWINNERSオーナー)
――おやつのじかんって、当時から有名でしたよね。
「そうですね、J-Speed(Hareruya Pros所属のMtGプロ)さんやてつろーさん、パタさん、常連客Tにオレンジとトリッパー…いろんな人がいましたよ。
今もデュエマをプレイしてるのはパタさんと常連客Tぐらいになっちゃいましたけど」
――常連客Tさん、PULUさんのブログでお名前を知りました。
「彼はネットを使わない上に遠征しないというスタンスなのであまり知られていませんが、強いんです。
おやつはそういう強い人がいて、デッキを教えてもらえる環境なので良かったですね。それに、おやつのおばさんがお客に積極的に声をかけてくれますし。1人でプレイしてる子がいると、引っ張って仲間に入れてくれるんですよ。
その頃の自分は人と話すことがあまり得意ではなくて、おばさんのおかげで助かったことをよく覚えています。本当に周囲に恵まれました」
――高2の頃からおやつへ行かれたとすると、GMはおやつへ通い始めてから2年後?
「はい。美嶋屋でよく調整していました。
大学の授業が終わった後の平日の夕方は大学生がチラホラ来ていたので、時間を合わせて調整するという感じで」
――美嶋屋、当時のDRの参加人数がえらく多かったことを覚えています。確か覚醒編あたりまではDRの最大定員が64人だったんですよね。
「今はMtG専門になっちゃいましたけどね、美嶋屋は…。DRの人数は多かったです。多い時で40人(※)とか。
月曜から金曜までは美嶋屋で調整、土曜は大学生だったうつな人(認定ジャッジ/GP2ndフロアリーダー)と一緒に美嶋屋のDR、日曜は常連客Tと一緒におやつのDRという感じで。
このころはバイトも週5で、今はもう撤退してなくなっちゃったロッテリアで働いてました。テナントの契約更新時に金額の折り合いがつかなかったらしくて」
※静岡ではDRに80人来たこともあったとのこと(by Thunders#36さん)
――すごい…圧倒的な調整量によってエリア代表になったんですね。
「うーん…僕が代表を取ったのは関西エリアなんですが、実はその前の中部エリアでは予選落ちだったんです。
僕はランデスが好きで、4Cキングが跋扈する中でもずっと黒ランデスを使い続けていたんですよ。焦土と開拓の天変がフェイバリットカードで、最近でも何度か組んでいます。
そして迎えた中部エリア代表決定戦、当時の予選方式は6人卓で3回戦。ちびっこと同卓になったのですが、黒ランデスを使った僕はその子にフェアリー・アクセラーでめっちゃマナを増やされて負けました(笑)」
――ランデスの弱点がピンポイントで来たと(笑)
「そうですね…。しかし当時のエリア代表戦はハガキで応募する形式で出場回数の制限もなく、僕はまだ関西エリアでの出場権を持っていました。
中部エリアが終わった後は関西に向けて調整していたんですが、そこでパタさんに”黒ランデスは事故るよ、青銅の鎧を2枚増やしたら?”とアドバイスされて。おかげで今度は予選抜け出来たのですが、準決勝で当たったのがエスパーさん」
――公式戦の上位で知り合いと当たるなんて…流石はおやつ勢。
「彼が使っていたのは4Cのキングアルカ。なんとか彼を倒すと、決勝で待っていたのはJ-Speedさんでした。
そして同じく4Cキングアルカを使うJ-Speedさんに勝って、念願のエリア代表を獲得。黒ランデスは弱い、なんて言われていただけにうれしかったですね」
――日本一決定戦でも黒ランデスを?
「いやー…それが、事前の調整でうつな人のネクラギャラクシーにまったく勝てなかったんですよ。素直にそれをパクり、パタさんたちにアドバイスをもらって日本一決定戦に臨みました」
――日本一決定戦の様子を教えてください。
「当時はエリア代表8人によるトーナメントで、負けたら即終わりでした。
1回戦で当たったのは鬼面城やジャスパーを使った青赤速攻。僕、速攻が昔から苦手で、特にブレイズクローが嫌いだったんですよ…でもいきなり相手が先攻でブレイズクローを召喚してきて。手札にはマナ加速カードもなく、”うわ、負けた!”って思いました。
ところがブレイズクローがブレイクしたシールドから、なんとムーンナイフが。そこから母なる紋章などを駆使して勝利しました」
――その対戦相手であるLuminesさん(※)、今は認定ジャッジとして活躍されています。シールドを割る順番さえ違えば!と今でも悔やんでらっしゃいました。
「あれ、僕はシールドからムーンナイフが来たとはその時言わなかったような…誰かから聞いたのかな。
まあでもほんと、負けたと思ってたので運が良かったですよ。
2回戦の相手はキングアルカ。
僕が先攻で、青銅の鎧からミスト・リエスにつなぐ理想的なスタート。相手も青銅からバキューム・クロウラーへ繋いできましたが、そのバキューム・クロウラーにデーモン・ハンドを当てて破壊。相手は返しに紋章で青銅を出し直したのみで、そのぬるい動きを逃さずソウル・アドバンテージを打ち込み、コントロールしきって勝利しました」
※【認定ジャッジ志望者インタビュー】LUMINESさん(チーム静岡)
――ソウル・アドバンテージ…名前を聞くだけで頭痛が…。
「最後の相手は4CのHDM、奇しくも僕自身が好んだ黒ランデスでした。相手は先攻で焦土と開拓の天変、そして英知と追撃の宝剣と繋いで僕のミスト・リエスを手札へ。
その返しのターン、僕の手札にはミスト・リエスとトリプルマウスがありました。僕はミスト・リエスを出したかったんですが、マナに光のカードがなくて…しぶしぶトリプルマウスを出したところ、相手の手札から零れ落ちたのはソウル・アドバンテージ。
おかげでそれ以上リソースを削られることなく盛り返し、優勝することが出来ました」
――GMより2年後のPM日本一決定戦で、Phoenixさんがアンラッキー・ダーツで6枚の手札の中からハヤブサマルを引き当てて優勝したエピソードに近いものがありますね。優勝する方はやっぱり違う!
「自分は運が良かっただけですよ(笑)
例年、日本一の決定後はインタビューがあったので、おやつの宣伝とブレイズクローを禁止にしてほしいって言わなきゃ!と身構えてたんですが、言うタイミングがその年はなくて。
DJショーに”どうしたら強くなれるの?”と聞かれたぐらいでしたね。つい”トップが強ければ”と答えてしまったところ、ショーが苦笑いして”仲間がいてこそだよね”という方向へうまいこと軌道修正してくれて…プロはうまいなぁって思いました」
――ところでブレイズクロー、嫌いだったんですか?
「僕は常連客Tを尊敬しているんですが、彼が嫌いなカードだったんです。おやつの他の古参勢も嫌いで、日本一になったら絶対規制してくれって言えよ!と煽られて(笑)
当時の赤単にはポロックやエルジージョ、タイラーのライター、エグゼドライブなどが入っていましたが、やはり代表的なカードと言えばブレイズクローでした」
――懐かしい…ちなみに、黒ランデスや4Cキングってどういう構成だったんですか?
「黒ランデスはフェアリー・ライフや青銅の鎧、タイム・トリッパーからマナ・クライシスや焦土と開拓の天変へ繋げ、HDMなどでフィニッシュするデッキです。当時はまだ使えたソウル・アドバンテージやサイバー・ブレインも入っていましたよ。トリガーは、アクア・サーファーと地獄スクラッパーが2:2です。
ただ、僕は一般的なフィニッシャーの代わりにボルメテウス・ホワイト・ドラゴンを採用していました。
4Cキングアルカは、ドリーミング・ムーンナイフや青銅の鎧から解体人形ジェニー、トリプルマウス、スカイソードを繰り出し、当時はまだ使えた母なる大地と紋章を駆使してキング・アルカディアス+スペル・デル・フィンという場を作り上げるデッキです。
当時は皆こっちを使っていました」
――そして、GMの直後のEMでもPULUさんはエリア戦で入賞していらっしゃいますね。
「EMの時はネクラを使いました。当時の環境に存在したデッキはドレーンMロマ、キリコ、トリッパーのない黒緑速攻で、自分はメタカードとしてメスタポを採用していました。
その次のPMは限定戦。ガード・ホールを4枚採用した4Cコントロールを手に出場しました。クロックタワーでランブルを一発覚醒させたりするデッキでしたね。
これらのデッキは主に常連客Tに作ってもらったものなんです。言うなればゴーストデッキビルダー(笑)
彼はネットを使わないんですが、僕がネットの情報や環境を伝えたりしてデッキに反映してもらっています。
今日(第1回WINNERS CS)使ったドギラゴン剣も同じく常連客Tからリストをもらいました」
――そうなんですね。すると、影響を受けたプレイヤーと言えば?
「やっぱり常連客Tです。デッキビルダーとしてずっと僕にアドバイスをくださいました。
次いでエスパーさん。あの人がおやつに連れて行って下さらなければ、今の僕はなかったでしょう。転勤で愛知からいなくなってしまって、今はデュエマをプレイされていませんけど…」
――仕事のご都合で離れられてしまったんですね。
「それと、おまんちんにも僕は影響を受けています。
今はヘブンズダイスや原一派などDMでもチームがありますが、何年も前に【おまんちん小隊】という調整チームがあったんです」
――懐かしい…当時のデュエマには結構色々な集まりがありましたよね。ミーアランドや天翼、右翼、虹翼、テンタクル…。その中でもメンバーがひと際強いチームだった記憶があります。
「当時のメンバーは確か、おまんちん、PULU、社長、あっつん、みや、しもん子、パルファン、智リットル、あー、ほろ、ぼーかるの11人で、skypeで多人数通話をしながらDMvaultを使って調整していました。
色々デッキ案を出し合い実戦し、意見をおまんちんがまとめて最終的に仕上げてシェアする形のチームです。
当時はほとんどのメンバーが学生で、夏休み等は朝までskype繋げて調整するという、ガッツリデュエマ漬けの日々でした。
第4回の川崎CSで僕がドロマーを使って2位に入賞出来たのは、おまんちんがデッキを作ってくれたお陰です」
――そうしてずっとデュエマをプレイされてきたPULUさんにとって、デュエマってどういうものなんでしょう。
「デュエルマスターズをきっかけに美嶋やおやつに行って、おやつのおばさんに話しかけられて皆と仲良くなって、美嶋の友人の紹介でロッテリアのバイトを始めて…普通に生活していたら会えなかっただろう人に、デュエルマスターズのおかげで沢山会うことが出来ました。なんていうか…本当に、デュエルマスターズをプレイしていてよかったと思います」
――ありがとうございます。最後に一言、お願いします!
「僕は日本一のタイトルを取ったので、CSなんかへ行くと対戦前に軽く煽られたりするんですけど、そういうのはあまり好きじゃないです。昔の日本一だという目で僕を見ている人は一度僕のTwitterを見てほしいかなって、思います。
自分で言うのも変かもしれませんが、その…あまり憧れすぎないでほしいんです。”尊敬してます”ではなく”尊敬してました”ぐらいの感覚がちょうどいいと思います。
そんな感じで、これからもよろしくお願いします」
――ありがとうございました。
■インタビューを終えて
僕が初めてPULUさんをお見かけしたのは6年前、サイキックマスター中部エリア代表決定戦前日です。その日は東刈谷のおやつのじかんで前夜祭があって、僕はロウ兄や紅茶、鐘子といった岐阜勢と一緒にそこへ参加していました。確か、メンフィスもいたかもしれません。
その時のPULUさんは僕にとって、”有名な日本一プレイヤー”でした。見かけただけで話すことはなかったんですけれど、彼はその時の僕が初めて会った、掛け値なしのトッププレイヤーでした。
結局その後、同じ県に住みつつも特に接点はなかったのですが、今回こうしてインタビューさせていただくことが出来て本当にうれしく思っています。
…ご本人が”憧れすぎないでほしい”と仰っているので、思い出話はこれぐらいで。
今後とも、PULUさんが楽しくデュエルマスターズをプレイされることを願っています。